憑依 事故 未解決 2026.07.18

恋人を轢いた運転手を「殺す」と嗤う男。その目の奥にいたモノ

取材・文/ミソサザイの巣

モノクロで捉えた、憔悴した男の目の接写。瞳の奥に、泣き叫ぶような女性の顔が浮かんでいる

その目の奥に、いたモノ。(イメージ)

これは、数年前に私が体験した話だ。

友人のAとは、大学時代からの付き合いだった。温厚な男で、十年以上のあいだ、彼が声を荒らげるのを見た記憶がない。飲み会で諍いが起きれば必ず間に入る、そういう人間だった。私は職業柄、人から話を聞くことには慣れている。だからAが「話を聞いてほしい」と連絡してきたとき、断る理由はなかった。

彼の恋人であるMさんが亡くなったのは、その数日前のことだ。

事故の概要はこうだ。深夜、Mさんは人通りのほとんどない県道沿いを歩いていた。そこへ走ってきた乗用車に轢かれた。ほぼ即死だったという。目撃者はいない。付近に防犯カメラもなかった。運転していた男は現場から逃げず、自ら通報している。

警察の調べでは、車側に過失はないと判断された。速度超過を示す証拠はなく、ブレーキ痕から算出された速度も制限内。むしろMさんが車道側にはみ出していた可能性が指摘された。要するに、誰の責任も問われないまま処理された事故だった。

Aと会ったのは、彼の自宅近くにあるファミリーレストランだった。

先に着いて待っていた私は、店に入ってきた彼を見て、思わず言葉を失った。数週間前に会ったときとは、まるで別人だった。頬はこけ、無精髭が伸び、目の下には濃い隈が張りついていた。げっそりと痩せて、以前の面影がほとんど残っていない。眠れていないのだろう。

席につくなり、彼の口調は、どこか荒かった。挨拶もそこそこに、「あいつ、謝罪の一つもよこさない」と吐き捨てた。それまでの温厚なAからは、想像もつかない声だった。運転手のことだ。だが、恋人をあんな形で突然失ったのだ。気が立つのも無理はない。私はそう思って、口調のことは気に留めないようにした。

私は一般的なことを答えた。制度上そうなってしまうこと、運転手にも生活があること。だがAは食い下がった。

「生活? 人を轢き殺しておいて、生活?」

声が大きくなっていく。私がなだめようとするほど、彼の苛立ちは募っていくようだった。恨んでもMさんは戻らない、と言えば、「戻らないから許せないんだ」と返してくる。会話は噛み合わず、少しずつ口論の色を帯びていった。

「殺してやりたい」

やがて彼はそう言った。冗談の響きではなかった。あいつの家は調べてある、今からでも行ける、と付け加えた。私はさすがに止めた。運転手は悪くない——少なくとも、そういうことになっているのだから、と。捕まれば君の人生も終わる、Mさんもそんなことは望んでいないはずだ、と。

すると、Aは急に声を張り上げた。

「悪くないわけがない。明らかに速度違反だった!」

店内の何人かが、こちらを振り向いた。しばらく、誰も何も言わなかった。私も、次の言葉が出てこなかった。

妙だ、と思った。

速度超過の証拠は出ていない。警察はそう結論づけ、Aもその説明を受けているはずだ。それなのに彼は、まるでその場に居合わせて、自分の目で見てきたかのように言った。事故の夜、Aは自宅にいたはずだった。

私は、メモを取る手を止めて、Aの顔を見た。

顔を上げた彼と、目が合った。いや、目が合った、という言い方は正しくない。Aの目は、私を見ていなかった。私の顔の表面をなぞって、その奥の、もっと遠い何かを見ていた。焦点が、合っていない。そして瞬きの間隔がおかしかった。人が考え事をするときのそれではない。一定の、機械的で、それでいて生き物じみたリズム。まるで、体の内側から別の誰かが、Aの目という窓越しに、外を覗いているようだった。

死んだMさんが、Aに憑いているのではないか。

そう思った瞬間、全身の毛が逆立った。

私は、オカルト記事を書くことを生業にしている。「憑依」という言葉も、これまで何度も記事に書いてきた。だが、それはいつも誰かから聞いた話であって、自分の目の前で起きるものではなかった。頭ではなく、体のほうが先に理解していた。目の前にいるのは、Aではない。Aの顔をした、別の何かだ。

エアコンの効いた店内で、背中を汗が伝った。指先が痺れ、水の入ったコップを持つこともできなかった。声を出そうとしたが、喉が貼りついて、息だけが漏れる。逃げ出したいのに、椅子から立てない。テーブルを挟んで一メートルも離れていないその距離が、暗い井戸の底を覗き込んでいるように遠く感じられた。

もちろん、確かめようはない。私が見たのは、憔悴しきった友人と、その奇妙な目だけだ。すべては私の憶測にすぎない。だが、あの数秒間に感じた恐怖だけは、憶測ではなかった。今でも、思い出すと指先が冷たくなる。

私は、当たり障りのない言葉を並べて席を立った。伝票を持つ手が、自分のものでないように重かった。Aは何も言わず、あの目のまま、私を見上げていた。店を出るとき、背中に視線を感じたが、振り返らなかった。

それきり、私はAとの連絡を絶った。着信もメッセージも、すべて無視した。冷たいと思われても構わなかった。もう一度あの目を見ることに、私は耐えられそうになかった。だから、そのあとAがどうなったのか、運転手が無事なのか、私は知らない。

あの晩、Aの目の奥から私を見ていたのは、本当に、死んだ彼女だったのだろうか。それとも、恋人を失って壊れかけた男の目を、私がただ見間違えただけなのか。

あなたなら、あの目を覗き込んで、どちらだと思うだろうか。

取材・文/ミソサザイの巣

本作はフィクションです。作中の人物・団体・出来事はすべて架空であり、実在のいかなるものとも関係ありません。