暖房の効いた部屋で、父は身体の芯だけを凍らせて死んでいた。四十九日ののち、遺品の桐の行李から出てきた昭和の紙束を、私は一枚ずつスキャンして時系列に並べはじめる。ダムの底に沈んだ、父の郷里の記録だった。
書簡(控え) 梶家関係
邦夫どの
冠省 先日は町の会合、ご苦労でした。役場のS川の件、いよいよ本ぎまりの由、こちらにも話が回ってきました。長らく、噂ばかりが先に立っていたことが、とうとう動きます。谷が沈むと、はっきり口に出してみると、妙なもので、腹の据わるような、寒いような心持ちがいたします。
さて、補償のことです。おおやけの枠のほかに、此度は建て替えの臨時枠というものが付くらしい。役場のTさんの話では、家の事情によっては、家一軒ぶんが余分に見てもらえる勘定になるとか。よほどうまく運べばの話ですが。あなたは若いが、算盤は達者だから、そこはあなたに任せます。年寄りの出る幕ではない。
ただ、ご承知のとおり、金の話と、お家の古い決まりごとは、いつも一緒に動きます。ことに今度のように、土地ごと、すっかり水の底に沈むというのは、先代の代にもなかった大ごとです。ただの移転、ただの改築ではすみません。谷が大きく揺らぐときには、しかるべき段取りを、しかるべきうちに済ませておかねばならぬ。これは、あなたの親御さんの代までは、みな承知していたことです。
お父上が達者なうちに、一度こちらへおいでください。口では書けぬ相談があります。電話では、なおさら申せません。ご足労ですが、こればかりは、顔を合わせて。
草々
儀助伯父上
拝復 先日はご馳走になりました。夜遅くまで、いろいろとお聞かせいただき、帰りの汽車の中で、ずっと考えておりました。眠れませんでした。
臨時枠の算段は、役場のTさんに、それとなく当たりをつけました。うちの世帯は、事情が事情なので、建て替えぶんまで見てもらえる見込みが立ちそうです。ただ、この枠は、どうも「家に残る者があること」が、形の上で要るようで。移転で世帯がばらけると出ない金が、一人、家に残る算段にすると、出る。妙な話ですが、そういう仕組みらしい。そして、その帳尻の合わせ方が、伯父上に伺った古い段取りと、ちょうど噛み合ってしまう。噛み合ってしまう、という言い方を、私はしたくありませんが、事実、そうなのです。
どなたにお願いするか、ですが——正直に申します。身内で、身軽で、事を荒立てぬ者となると、限られます。澄江のことを考えています。あれは町にも知り合いが少なく、母のほかに親しい者もなく、こちらの言うことをよく聞きます。以前から、東京へ出て働きたいと申しておりました。ですから、東京にいい口があると言ってやれば、疑いもせず、喜んで支度をするでしょう。籍のことも、転出の手続きに紛れさせておけば、あとで面倒がありません。
母には、話が済んでから、追い追い伝えます。今から言えば、母は必ず止めます。あの人は、昔から、この家の決まりを嫌っておりましたから。
気の重い相談を、まるで田畑の相続の話のように、事務のように書いて、申し訳ありません。けれども、こういうことは、情を挟むと、運びません。伯父上のおっしゃるとおり、しかるべきうちに、静かに。私も、そう腹をくくります。
邦夫どの
承知しました。それでよいでしょう。澄江どのなら、町に恨みを残す縁も薄い。むしろ、日の当たるところへ出たいと本人が願っているなら、それが、いちばん静かな運びです。当人が最後まで、これは幸いだと思うていられるなら、それが、あれのためでもあります。むごいようですが、これは、そういうものです。
家の普請は、夏のうちに始めます。奥の一間を、しっかりと囲います。窓も戸も、古いやり方どおりに塞ぎます。大工には、地下の水が湧くのを止める工事だとでも言うておきなさい。よそから来た大工なら、それで通ります。音のことは、当日、私が段取ります。あれは代々、家の年寄りの役で、あなたはまだ聞かぬがよい。おいおい、あなたが年寄りになったとき、次の者に、あなたが教えるのです。
くれぐれも、当人には最後まで、東京の話で通すこと。荷は持たせぬこと。持って入ったものは、みな、向こうのものになりますから、こちらへ残すものは何もない、身一つでよい、と言えばよい。写真の一枚くらいは、持たせてやってもかまいません。それくらいは。
これで、あと三十年か四十年は、谷は静かになりましょう。私の代で、まさかもう一度これをやるとは、思うておりませんでした。あなたの代で、さらにもう一度あるかどうかは、水しだい、土地しだいです。願わくは、あなたの代で、しまいになりますように。
S川谷 民俗聞き書き(写)
※水没前のK地区で採集された、在野の記録者の覚書を、後年、有志が書き写したもの。採集は昭和四十年代後半とみられる。原本は所在不明。
K地区はS川の源に近い谷底にある。両側から崖がすぐそこまで迫り、空は頭上に細く切り取られたようにしか見えない。私が訪ねたのは初夏の午後であったが、谷に下りるとまるで夕暮れのように薄暗く、ひやりとした。集落の古老によれば「谷は入ってきたものが出ていかぬ土地」だという。雨も風も、そして——とここで古老は言葉を濁した。死んだもの、という言い方をこの土地の人はあまりしない。
聞き書きを重ねるうちに、この谷には外の土地にはない独特の死生観があることが分かってきた。曰く、人でも獣でもこの谷で死ぬと、その「気」は山を越えて散っていかない。崖に阻まれて谷の底にそのまま溜まる。飢饉の年も疫病の年もあった。谷は逃げ場がないから、そういう年には多くがここで死んだ。そうして死んだものの「気」が幾百年もかけて地の底に幾重にも積もっているのだという。
そして谷のいちばん奥、いちばん低いあたりに、その積もったものが凝って固まった一点があるとされる。古老はそこを「お淀み様」と呼んだ。神ではない仏でもない、と何度も念を押された。願いを聞く相手でもなければ祟りをなす相手でもない。ただ「そこに在るもの」であり、そして「決して触れてはならぬもの」だという。子どもには、あの奥へ入ると帰り道が分からなくなると繰り返し言い聞かせる。実際その一帯は古くからの禁足地とされ、私も案内を固く断られた。遠くから木々の切れ間にそのあたりを望んだだけだが、なぜかそこだけ光の加減がおかしく澱んで見えた。気のせいであろう。
興味深いのは、住民が「お淀み様」を意思のあるものとして語らないことである。祟るとも罰するとも恨むとも言わない。ただ放っておくと「ふくれる」「にじり寄ってくる」と言う。まるで水か黴か、あるいは地面のゆっくりしたたわみのような物の言い方をするのだ。私が「では、それは悪さをするのですね」と問うと、古老は少し困った顔をしてこう答えた。「悪さというのとは違う。あれはただ広がる。広がって呑む。呑まれたものがまたあれになる。それだけのことだ」。
呑まれるとはどういうことか。私は重ねて尋ねたが、古老はそれきり口をつぐんでしまった。
谷の暮らしは決して豊かではなかった。日が差さぬから米はできず、雑穀と山の恵みとわずかな養蚕とでしのいでいた。祭りらしい祭りもない。神社は谷の口に小さなものが一つあるきりだ。ただ家を新しくするときや井戸を掘るときなど、地面に手を入れるときには必ず年寄りが立ち会い、いくつかの決まりごとを守るという。その決まりの中身については、どの家でも口が重かった。「あれは本家筋の者しか知らぬ」「よそ者に話すことではない」と。この谷でいちばん古く格の高い一族が、代々その「役」を負っているらしい。私がその本家の名を尋ねると、古老はなぜかあたりをはばかるように見回してから、低い声で教えてくれた。
まもなくダムでこの谷は沈むという。ここに積もったものもこの聞き書きも、みな水の底になる。人がいなくなれば「お淀み様」もいずれ忘れられていくのだろう。惜しいことである。いや、あるいは忘れられ、触れる者もいなくなることこそ、この谷にとってはいちばんよいことなのかもしれない。谷を出るとき、私はなぜか、二度とここへは来まいと思った。(採集者・付記)
スキャンを始めて三週間ほどになる。
紙の山は思ったより深かった。行李三つ分の紙を日付順に並べていくと、一つの家が土地ごと水の底へ沈む前の、十年ばかりの記録が少しずつ形になってくる。大半は補償がらみだ。誰にいくら、どの枠で、いつ払われた。役場とのやりとり、親族間の金の相談、移転先の土地の下見。そういう、生々しいけれどどこの家にでもありそうな話が延々と続く。私はそれを事務員のような気持ちでただ並べていた。父の生家はどうやら、その谷ではいちばん古く格の高い家だったらしい。金の動きの中心にいつも父の家があった。
引っかかりだしたのは叔母のことだ。
父に妹がいた。梶澄江という。恥ずかしい話だが、私はその人のことをほとんど何も知らなかった。若いころに東京へ出てそれきり縁が切れた、という程度のことをいつか誰かから聞いた気がする、というくらいだ。父の口からは一度も聞いたことがない。
その澄江さんの行方不明者届の控えと、取下げの控えが、行李の中に両方入っていた。昭和五十六年の秋のものだ。
最初はただの古い書類だと思って、日付だけ確かめてフォルダに入れた。けれどその二枚を並べて何度か読み返すうちに、だんだん妙な気持ちになってきた。
届を出したのは父だ。梶邦夫、当時三十。そして取り下げたのも父だ。取下げの理由は「本人から連絡があった」。ただそれだけ。本人が署に来たわけでもない。書面を出したわけでもない。どこにいるのかどうしているのか、「詳しくは聞いていない」と父は署で言っている。それで受理は取り消されている。届を出してから取り下げるまで、ほんの数週間の話だ。
普通、いなくなった妹から久しぶりに連絡が来たら、どこにいるんだ、無事なのか、何があったんだと根掘り葉掘り聞くだろう。少なくとも住所くらいは聞くはずだ。それなのに父は何も聞いていない。というより、聞く必要がないことを初めから知っていたように見える。妹がどこにいるかもう分かっているから、確かめるまでもない、というふうに。
そう思って、ほかの紙も叔母の名前を探しながらもう一度ぜんぶ見直してみた。おかしなことに、昭和五十六年の秋を境に澄江という名前がぷつりと出てこなくなる。東京へ就職したのなら、その後の便りの一つや二つあってもよさそうなものだ。年賀状でも、住所の走り書きでも。就職を世話したのは父らしいのに、世話をした側の記録が何一つ残っていない。人を一人都会へ送り出したにしては、あまりにも何もなさすぎる。
まるで東京へなど行っていないみたいだ。
そこまで考えて、私は少し気味が悪くなってその晩は作業をやめた。考えすぎだと自分に言い聞かせた。五十年近く前の、縁の切れた親戚の消息がはっきりしないというだけの話だ。珍しくもない。私は父がなぜあんな死に方をしたのかが知りたいだけで、大昔の家族の秘密を掘り起こしたいわけじゃない。
紙の中には、金の話や叔母のこととは別に、もっと妙なものも混じっていた。谷の古い言い伝えを誰かが書き取った覚書の写しだ。土地の底に「触れてはならぬもの」があって、家を建て替えたり地面を掘ったりするときには本家の年寄りが決まりごとを守る、という民話めいた話だった。私はへえと思っただけで、迷信の類として日付だけ確かめてフォルダに入れた。父の郷里の、もう水の底へ沈んだ集落の言い伝えだ。今の私に関係のあるはずもない。
問題はその晩からだ。
夜中に目が覚めた。何かの音がした気がした。私が今寝泊まりしているのは自分のマンションのほうで、三階の廊下に面した一室だ。その玄関のある廊下側から音がしていた。
水を歩く音だった。
ぴちゃ、ぴちゃと、濡れた素足で濡れた床を歩くような音。それが等間隔で、私の部屋の玄関の前を右から左へ、行って、少し間を置いてまた左から右へ戻る。歩幅の分かるはっきりとした足音だった。
私は布団の中で動けなかった。マンションの廊下は外に面している。雨は降っていなかった。しばらくして音は止んだ。私はそのまま朝までほとんど眠れなかった。
翌朝、玄関を開けて廊下を見た。濡れた跡はなかった。乾いたいつものコンクリートの廊下だ。管理人さんに、昨夜上の階で水漏れか何かなかったかと聞いてみたが、そんな報告はないという。私は寝ぼけていたんだろうと思うことにした。
けれどそれから毎晩だ。同じ時刻に近いころ、あの音がする。ぴちゃ、ぴちゃ。行って、戻る。ある晩から、その足音が止まっている間に、遠くのほうでもう一つ別の音が混じるようになった。木を叩くような音だ。こつ、こつ、こつと規則正しく三つ。誰かが拍子を取っているような。
昼間、会社に戻っても頭がぼんやりして仕事にならない。夜が来るのが怖くなってきた。眠るために酒を飲むようになった。それでもあの時刻になると目が覚める。そして耳を澄ましてしまう。今夜は来るか。来た。ぴちゃ、ぴちゃ。
これは父の死を調べる話だったはずだ。叔母がどこへ行ったのかというのは、そのついでに出てきた古い紙の話にすぎない。私自身には何の関係もないはずだ。
関係がないはずなのに、あの水の音は、私が叔母の取下げの紙を並べて「東京へ行っていないみたいだ」と思った、まさにその晩から始まっている。