凍死 電話 風習 第4回/全4回 2026.07.11

暖房の効いた部屋で、父は「凍死」していた

前回までのあらすじ

電源の入らなかった父の古い携帯には、毎晩午前二時十四分に「1981」から着信があった。父は四十年、一度も出なかった。ある晩、私はその電話に出てしまう。受話器の向こうには、重なり合う大勢の声があった。

EXHIBIT

家計簿(昭和五十六年)

一月十六日

大根/油揚げ/マッチ/灯油

今年はよく雪が降る。谷は、降った雪が、崖に囲まれてなかなか溶けない。朝、井戸の水を汲むと、手が切れそうに痛い。母さんの手は、あかぎれだらけ。私の手も、だんだん似てきた。

二月三日

節分。豆だけ買った。母さんと二人で、小さい声で豆をまいた。谷の家は隣が遠いから、大きい声を出しても、誰にも聞こえない。

兄さんは今年に入ってから、町のほうに泊まることが多い。役場の人と、補償の話で忙しいらしい。

三月八日晴のち曇

米 なし(家にある)/醤油 二百三十円/油 三百十円/新聞代

豆腐屋のおばさんが、うちも来年には引っ越しだねえ、と言った。まだ先の話なのに。谷の下は日が短いから、越すなら日の当たる町がいい、と母さんが言う。私も、そう思う。

三月十一日

卵 一パック二百十円。高い。でも、兄さんが久しぶりに帰ってくるから、奮発して、だし巻きにした。兄さんは、町の役場の人ともよく話をしていて、補償のこと、移転のことで、忙しいらしい。私には、難しいことは分からない。だし巻きは、上手に巻けた。兄さんは、うまいうまい、と言って食べてくれた。

三月十五日

テレビの日曜劇場、最終回。最後のところで、泣いてしまった。母さんは、途中で寝てしまって、見ていない。谷は電波が悪くて、雨の日は画面がざらざらになる。今日は晴れていて、よく映った。よかった。

えんぴつ 二本/ちり紙

三月二十日

兄さんが、東京の話をしてくれた。知り合いの伝手で、住み込みの働き口があるという。賄いも付いて、休みも、ちゃんとあるところだと。私みたいな者にそんないい話があるのかと聞いたら、兄さんは、お前は身軽だからいいんだと言って笑った。

夜、なかなか寝つけなかった。東京。行ったこともない。こわいような、うれしいような。

三月二十四日

一日、家のことをした。障子の張り替え。谷の家は湿気るから、紙がすぐ、波を打つ。何度張り替えても、じきに、ふやける。

兄さんから、東京へ行くなら、籍のことも早めに片づけておけ、と言われた。転出の手続きと一緒に、こっちの籍は先に抜いておいたほうが、向こうで話が早い、と。難しいことは、兄さんに任せる。私は、行くだけ。

四月二日

砂糖/塩/煮干し

役場へ行く母さんについて、町まで下りた。谷を出ると、急に明るくて、目がちかちかした。町の人が、あんたのところは今度のことで、ずいぶん都合をつけてもらったねえ、と、母さんに言っていた。母さんは、笑わなかった。

帰り道、兄さんの家(本家)の前を通った。庭の物置を、大工さんが何人も入って、直していた。ずいぶん頑丈に囲って、窓を板で塞いでいるように見えた。改築だろうか。今度のことでお金が入るから、と、誰かが言っていた。

四月九日

ずっと雨。谷の底にいると、雨の音が、上からも、下からも、聞こえる気がする。

東京の仕事のこと、母さんに話したら、あまり、嬉しそうではなかった。兄さんに任せておけば悪いようにはしない、と私が言うと、母さんは、あの家のことは、昔から男が決めるから、と、それだけ言って、あとは、何も言わなかった。母さんは、このごろ、私の顔を、じっと見ることがある。

布団の綿が、湿っている。早く、日の当たる町へ、行きたい。

五月十日

ひさしぶりの上天気。布団を干した。日に当てた布団は、いい匂いがする。

東京の部屋は、どんなだろう。狭くてもいい。日さえ、入れば。谷の家は、どこも薄暗いから、朝、日の光で目が覚める、というのを、一度でいいから、してみたい。

六月十四日

母さんが風邪をひいた。私がずっと看ている。夜、母さんがうなされて、澄江、澄江と私の名前を呼ぶ。すぐそばにいるのに。手を握ると少し落ち着く。

私が東京へ行ったら、母さんは一人になる。それだけが気がかりだ。

六月二十一日

兄さんが来て、東京行きは、来月になりそうだと言った。向こうの部屋の都合と、こっちの片づけの都合で。それまでに、要らない物は処分しておけ、荷物は、何も持っていかなくていい、向こうで全部そろえてやるから、と。

何も持っていかなくていいというのが、少し寂しいような、身軽なような。母さんの写真だけは持っていこうと思う。

七月一日

いよいよ、来週、発つ。兄さんが、送ってくれる。

家計簿も、これで最後になる。向こうでは、兄さんが全部そろえてくれるというから、私が、銭の心配をすることは、もう、ないのかもしれない。

卵 二百二十円。また、上がった。最後だから、これも、書いておく。

母さんの写真だけ鞄に入れた。ほかは何も持っていかない。身軽なのは案外いいものだ。

早く、日の当たる部屋で目を覚ましたい。

電話に出た次の日、私は叔母の家計簿をもう一度初めから読んだ。

行李の底にあった昭和五十六年の一冊だ。とうにスキャンしてフォルダに入れてあった。卵の値段、障子の張り替え、日曜劇場、母の看病。なんということもない、若い娘の一年ぶんの生活の記録だ。前に読んだときはただの家計簿だと思って、日付だけ確かめて流していた。

今度はちがって読めた。

「兄さんが東京の世話をしてくれる」。「荷物は何も持っていかなくていい」。「東京の部屋はどんなだろう。日さえ入れば」。「母さんの写真だけ鞄に入れた」。それは、あの電話で大勢の声が重なって最後に一人の女の声になった、あの切れ切れの言葉と同じだった。

あにさん。もちものいらない。とうきょう。いまどのくらいひろい。

あの電話の声の一つは、この家計簿を書いた人だった。梶澄江。父の妹だ。私はその声を聞いたことがないはずだった。それなのに聞いた瞬間に背筋が凍ったのは、たぶん私がこの人の一年ぶんの言葉をすでに読んでいたからだ。

叔母は東京へなど行っていない。行けるはずがなかった。

あの年の夏、叔母は本家の奥の、窓を板で塞いだ部屋に入れられた。谷の古い言い伝えにあった、あの「縫い止め」だ。土地が水の底へ沈む前に、身内のいちばん軽い者を一人閉じ込めて、そこに「悪いもの」を縫い止める。叔母はそのために選ばれた。東京の仕事も、籍を抜けという指図も、荷物を持たせないという言いつけも、何も持ってくるな身一つでいいという優しげな言葉も、ぜんぶそのための段取りだった。私の父が伯父に言われるまま、実の妹にそれをした。日の当たる部屋で目を覚ましたいとだけ願っていた人を、二度と日の差さない真っ暗な箱の中へ閉じ込めた。

そして叔母はそのまま湖の底へ沈んだ。四十年。今も。

湖の底で、叔母だったものは毎晩電話をかけてくる。午前二時十四分に。父の携帯へ。かけているのはたぶん叔母の意思ではない。恨みでも助けを求める声でもない。もっと水や黴や、地面のゆっくりしたたわみのような、意思のないただ広がっていくだけのものが、叔母の声を器のように借りて自動的に番号を押しているだけだ。何十年も飽きもせず。その番号がなぜか「1981」と表示される。叔母がこの世から消されたことにされた、あの年の数字で。

父は一度も出なかった。出れば受け取ってしまうと知っていたからだ。谷の家に生まれてしきたりを教えられていたから。妹を箱に入れたのが父である以上、あれはまっすぐ父を目指してかかってきていた。だから父は四十年、ただ鳴らせるだけ鳴らせてそばに置いておいた。出ずに放っておくことが、父にできる精一杯の防ぎ方だった。

けれど置いておくだけでも駄目だったのだと思う。あの携帯は湖の底のあの冷たさに繋がった管のようなものだった。そばで四十年も毎晩鳴らせ続けたことが、父の身体の芯を少しずつ凍らせていった。父が暖房を効かせた自分の部屋で、背中の芯だけを凍らせて死んだのはそのためだ。連れて行かれたのではない。長い年月をかけて冷えて死んだ。父は最後まで一線を越えなかった。妹にあんなことをしておいて、それでも逃げずに、あの電話のそばで凍えながら死んだ。

越えたのは私だ。

何か分かるかもしれないと思って私は出た。父が四十年守った一線を、たった一晩の好奇心で越えた。そして受け取ってしまった。あの声ははっきり言った。つぎはあんたのお部屋の番だよ、と。

今、私の番になっている。

部屋の隅の壁から水が染み出してくる。青黒い冷たい水だ。拭いてもじきにまた滲む。うちはフローリングのはずなのに、いつのまにか足の下が湿った畳になっている。背中の芯はもうずっと氷のようだ。父と同じだ。さっき部屋を出ようとしてドアを開けたら、廊下ではなかった。見たことのない真っ暗な畳の部屋が広がっていた。板で塞がれた窓が闇の中に四角く浮かんでいた。奥の壁は遠く、見ているあいだにも少しずつ遠くなった。あの電話の水の匂いがした。私はあわててドアを閉めた。まだ閉められた。今はまだこちら側にいる。

でもこの部屋も、さっきより広い。天井が高い。奥の壁が遠い。叔母が湖の底で「いまどのくらいひろい」とつぶやいたのが、今なら分かる。中に入れられた者は、際限なく広がっていく真っ暗な部屋の中で、生きたまま少しずつあれの一部になっていく。四十年、叔母がそうであったように。次は私がなる。

だからこの文章を残す。落ち着いて、まだ手が動くうちに、順を追って書いた。読んでくれた人に、お願いがある。

私はまだ生きている。この部屋のどこかにいる。ただ部屋が広がっていくだけで、まだ消えてはいない。もし私が急にいなくなって、部屋にこのファイルだけが残っていたら、どうか探してほしい。警察でも、誰でもいい。この部屋のドアを外から開けて、梶、と私の名前を呼んでほしい。名前を呼ばれれば、私はまだ振り向けると思う。まだ間に合うかもしれない。

机の上に、父の古い携帯がある。それが、始まりで、たぶん終わりだ。あれを充電したまま鳴らせておいたのが、いけなかったのかもしれない。もし私を探してくれるなら、あの携帯のことも、忘れないでほしい。

どうか、早く来てほしい。私はここにいる。ずっと、ここで待っている。

本作はフィクションです。作中の地名・人物・団体・出来事はすべて架空であり、実在のいかなるものとも関係ありません。